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少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧 れの男の子に、「そんなキミが好き」だと言われて安心する、つまり男の子からの自己 肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。彼はその著書『花咲く乙 女たちのキンピラゴボウ(・1)』(一九七九)の中で、オトメチックマンガの代表選手、陸奥A子に ふれてその論を展開しているのだが、それが典型的な少女マンガのパターンとして新聞 に紹介されたとき、私は、文字通り殴られたような衝撃を受けた。一瞬、頭がくらく らっとし、足元の地面が地すべりを起こしたような感覚に見舞われた。そこに書かれて いたのは、まさに私自身の切なる願望だったからである。 お世辞にも両親に愛されて育ったとはいえない私にとって、この世界に、はたして自 分のいる場所はあるのか、という問いはかなり深刻な問いだった。しかし、いつの日か めぐりあう恋する異性が、そのままでもいいんだよ、キミはボクのためだけにでも生き ている価値があるんだよ(ああ恥ずかしい。十代だったんだよ!っと)と言ってくれる ことだけが、唯一その不安から逃れられる道、当時の私の生きていく支えだった。そう すれば世界は一変するに違いない、何もかもがうまくいきはじめる、私は本気でそう 思っていたのである。ところがそれが、少女マンガからの刷り込みだったとは! それ ではどこにも救済の保証はないではないか──。 当時の私にもそのことを瞬時にして悟るぐらいの知恵はあった。しかし実際にそれま でに刷り込まれた幻想(イリュージョン)と訣別し、自分を救えるのは結局自分しかな い、というところに立てるようになるまでには、さらにその後十年、ほぼ二十代の終わ りまでを要した。なんだかんだの実際の恋愛の修羅場をかいくぐってからのことであ る。その過程で、それまで私がもっていた様々な幻想(イリュージョン)は次々と打ち 砕かれ、現実にあわせて修正を余儀なくされていった。そして、その幻想(イリュー ジョン)がどこからきていたのか、つまり、現実の恋愛の様々な局面に対して私がとる 態度、考え方、それを決定するもとになる原イメージはどこにあったかを探ると、その ほとんどがやはり、昔読んだ少女マンガが原型になっていたのである。 |
こう書くと、まるで私がマンガ漬けのバカのようであるが(まあ、実際そうなのだ が)、人の実際の見聞には限りがある。一般に、様々な事象に対する人々の原イメージ がどこからきているのかというと、小説・映画・TV・雑誌その他のマスメディアだろ う。その中では、少女マンガは最もその時代の女性の価値感を敏感に映しだしてきた分 野である。その中には恋愛の、ほとんどすべてのパターンがあるといっても過言ではな い。そうした意味で、レディースも含めた女性向けコミックにあらわれた恋愛に関する メッセージの内容と、その時代による変化を探ることは、一般の女性が浸ってきた幻想 の体系を探ることになるはずだ。私は、そして(こういう言い方を許してもらえるなら ば)私たちは、どういう罠にはまってきたのか。これは、それを探ろうとする試みであ る。
記憶の糸をたぐる時、二十数年前の彼方に燦然と輝く一つの作品がある。西谷祥子 (にしたに よしこ)『白ばら物語(・2 )』。今読むと、はるかに遠くに来たものだ、とは思うが、読み返してみても、幼い日 の私がなぜあれほどに魅了されてしまったのかがよくわかる、完成度の高い作品であ る。
物語は、英国の田舎の地主の娘が、行儀見習いにロンドンの大きな屋敷に滞在すると ころからはじまる。彼女ははじめ嫌がったのだが、独身の詩人で、きままに暮らす憧れ の叔父から、作家になりたいのならないごとも経験だ、お屋敷で見聞きしたことをこの ノートに書いていってごらん、と一冊のノートを渡されて、違う世界をのぞいてみる気 になる。想像以上にきらびやかな屋敷で彼女を迎えたのは、派手好きで毎日男の子と遊 び暮らしている長女、かたくなな次女、そして皮肉屋の次男だった。長男は美学校に留 学中だというが、彼女の滞在中に失踪してしまう。屋敷の奥にはとりわけ贅を凝らした 部屋があり、その主である貴婦人の美しさに彼女は息を飲む。聞けばその貴婦人こそが その家の女主人、四人の子供達の母親であるという。案内した次男は、あれで母親なん てお笑いぐさだ、両親は自分達が何を欲しているかなんてわかっていやしない、と主人 公(ヒロイン)に屈折した思いをぶつける。お金はありあまるほどあってもばらばらな 家族。“この家では何かが狂っている”彼女は思う。そんなある日、派手好きで男好き の高慢な女だと思われていた長女が、実は使用人の男と愛しあっていることが父親にば れ、二人はかけおちしてしまう。心配した次男に頼まれて、主人公が様子を見に行って みると、そこにはみちがえるほど落ちついて若奥様然とした長女がいた。粗末な服を着 て、じゃがいもの皮をむきながら「小さくってもきたなくっても、ここには愛と信頼が あるわ。あの白い大きなおやしきにはないものよ」と微笑む彼女。一方、屋敷では次女 が狭心症の発作を起こす。原因は精神的なものだと聞いて次男はついに奥の部屋から母 親をひきずりだす。「リサの病気はおしばいじゃないんですよ。あと二、三度ほっさが おきれば死ぬとまでいわれたんですよ。それでもあなたはこの金ぴかの部屋からでない つもりですか!」しかし、かえって彼に平手打ちをくわす父親。次男の家出。それに ショックをうけた父親は二階の手すりから転落。生死の境をさまよう夫の姿を前に、妻 は二十年ぶりで愛にめざめる──。
とまあ、こんなストーリーである。これはもちろんラブロマンスが主軸ではない。そ ういう要素としては、ラストで主人公が憧れの叔父の結婚にショックを受け、涙にくれ るが、結局はそれを受け入れて式に出席する。その横に、失踪後、主人公の叔父に拾わ れていた屋敷の長男が、新しい恋の予感をうながすように寄り添う、ということだろう か。しかし、より主要なテーマは“家族のつながり”であるようにみえる。今でこそ恋 愛の権化のように思われている少女マンガだが、この頃まではそのテーマはむしろ「家 族」にあった。継母だの出生の秘密だのというあれである。それではこれもその延長線 上にあるのだろうか? もう少し詳しくみてみよう。
すると恋愛に関する要素が実はもう一つ描かれていることに気づく。長女の恋愛であ る。これは明らかに生家の人間関係と対照的に描かれている。すなわち、「愛する人と 共に暮らす幸せ」vs.「一緒に暮らしながら愛のない不幸」である。つまり、「愛し あって結婚し、愛にあふれた家庭をつくる」ことこそが理想とされているのだ。恋愛は そこへつながる道である。主人公はまだ子供とみなされているためにそれに本格的に参 加させてもらっていないだけだ。すなわち、「愛ある結婚への憧れ」それが少女マンガ の恋愛の出発点だった。
それからもう一つ、それがそれまでの家庭的な不幸と対になってあらわれることに注 意しておきたい。冒頭にふれた、少女マンガにおける自己肯定への欲求は、異性に向か うのみならず、しばしばストレートに親に対する自己肯定の欲求として登場する。そし てそれは当の女の子だけでなく、男の子が、親からの愛が得られずに悩む姿としても描 かれる。ここでの次男の姿はその典型である。この作品でこそ次男は恋愛の対象になっ ていないが、たいていの場合、女主人公は偶然、男のそうした寂しさにふれる機会をも ち、その屈折を悟って、「誰にもわからなくても私にはあなたがわかるわ」と叫ぶ。い や、叫ばないまでもそれが、彼女を彼に大きく近づける重要な設定になっていることは 確かである。たとえば『白ばら物語』とほぼ同時期に書かれた、鈴原研一郎『レモンの 年頃(エイジ)』でも、主人公のBFである圭一郎は、女優の母をもったことで色眼鏡 でみられており、実際、寂しい家庭にぐれぎみの存在として描かれている。主人公だけ が、そのよき理解者である。それはなにもこの時代だけではない。今回、一条ゆかりの 作品を読み返してみて私は、彼女の代表作のことごとくがこの設定をとっているのに驚 いてしまった。
一九七〇年からはじまって評判になった連載『風の中のクレオ』では、どこか陰があ り、人に心を許さない少年クレオの心の屈折とさすらいが物語の主軸になっている。彼 の屈折は父親が彼の母を追い出して新しい女を家に入れたことからきている。彼に魅か れ、メイドとして家に入り事情を垣間みたベルはいう。「愛とかそんなんじゃなくて、 あたしただクレオのこと理解したいだけなのよ。クレオのことわかるような気がするの よ。」
読切の名作『九月のポピイ』でも、プレイボーイのレイニィ先生に、<父親の浮気で 泣きながら走っていった母、そのまま離婚してしまった母親を探しあて、訪ねていって みると、すでに再婚して新しい夫と子供があり、自分の場所はなかった>というつらい 過去があったと知って、ポピイの思うのは──“うそだったんだ、あのばか笑いもなに もかも。今まで私が見てきたのはうわべだけの姿だったんだ。”
あの、心躍る決傑作『ハートに火をつけて』でさえ、はじめてみる彼の寂しげな表情 に主人公は、“あたしはこの人のどこを見てたんだろう。イヤミでずうずうしくて女た らしで──ああ、なんて表面ばかり見てきたことか”。彼も母親に捨てられているので ある。そして、パーティーでその母親と対面して、激して飛びだしていった彼を追いか けて主人公が叫ぶ言葉──「あたしにはわかる……誰にもわからなくてもあたしにはあ なたがわかるわ!」
一条ゆかりだけではない。表現の激しさこそ違え、この設定は、一九九〇年の現在で すらはいて捨てるほどある。各雑誌に最低一つぐらいはあるから、嘘だと思ったらその へんの雑誌を見てみるといい。いきつくところこの含意はこうだろう──
「あなたを捨てた冷たい母親と違って、私はあなたに暖かい家庭を作ってあげられ るわ。」
出発点がこうである以上、日本の女たちがあらゆる意味で母親を志向していくのは、 自明の理であったのである。
さて、『白ばら物語』をみているともう少しわかることがある。一つにはこれが外国 の物語だということであり、もう一つは、ことあるごとに主人公が「私はまだ子供なん だわ」とつぶやき、相手の少年から「こうやってぼくたちは大人になっていくんだよ」 などといわれたりすることである。これに象徴される通り、日本のラブストーリーはま ず、輸入恋愛として出発した。典型的には欧米のハイスクールあたりに舞台をとり、十 五歳ぐらいの主人公が、まだBFができないと悩んでいる。たいていはそれに、美人で 男の子にもてる姉というのが設定されており、いわば主人公の先達の役割を果たしてい る。そして主人公がはじめてのデートをする頃に、婚約したりなんかするの である。その過程で、主人公の中では「まだ子供なのね」という反省と「はやく素敵な レディになりたい」という願望がセットになって繰り返される。「レディ」というのが この頃のキーワードであり、一九七〇年代の初め頃まで、まだ落ち着かなさの残る主人 公たちは「そんなのでレディといえるのかい?」とからかわれ続ける。作品で言えば、 西谷祥子では『マリイルウ』、本村三四子で『すてきなパメラ』『初恋さんこんにち は!』『Oh!ジニー』などで、西谷祥子『クラスリングは恋してる』あたりがその頂 点だろう。
さて、ラブロマンスの女王、一条ゆかりが登場するのがちょうどその頃であった。こ の人は年齢でいえば“花の二十四年組”にあたるのだが、なにかの座談会で、「あの人 はデビューするやいなやもう『りぼん』の看板作家として活躍しはじめた人だから ちょっと違うんですよ」と言われた通り、以来二十数年にわたって少女マンガのトップ に立ち続けるという希有な作家である。少年マンガ以上に入れ替わりの激しい少女マン ガ界において、そして数少ない長命作家もレディースコミックの方に転向していくのが 普通のこの世界において、これは他に類をみない。そして少女マンガ史をふり返る時、 私は、現在みられる恋愛や家族像の新しいパターンの端緒が、みんな彼女の作品にある ことに気づいて目を瞠る。従って彼女の二十年はそのまま、ラブイメージの変化して いく過程でもあるが、とりあえず一九七〇年前後の彼女がうちだしたテーマは、愛の激 しさ、命をかけても悔いない恋、であった。
たとえばこんなぐあいである。
前出『風の中のクレオ』で、クレオが身を寄せているヒッピーの女王(?)ミディア に向かってベルはこう宣言する。「あなた私のこと子供だと思っているでしょ。何もで きないと。でもクレオのこと一番よく知ってるのは私よ。あの人を一番愛してるのも私 よ。愛があるわ。クレオのためになら死ねるわ。愛を信じないあなたには無理よ。今に どんなに愛の力が恐ろしいか、あなたに教えてあげるわ」。そしてその言葉通り彼女 は、クレオがミディアを刺そうとするとき、彼に人殺しをさせるぐらいなら、とナイフ で我と我が身を突き刺す(救かるけどね)。
また、その前作『恋はお手やわらかに』では、恋のさやあての焦点だった男の婚約者 が死に際にみせた愛の深さに、「あの人は命をかけてバートを愛したんだわ、あたしが こわすことなんてできない」と主人公がショックをうけるのみならず、それまでさんざ んぱらひっかきまわした意地悪女までが、「愛するってこんなものじゃない。悩んで悩 んで死ぬくらい苦しいものよ。わたしにはまだ愛を語る資格なんてないわ」と反省する のである。
『クロディーヌ、愛を』にも同様のセリフがあるし、デビュー作『雪のセレナーデ』 でも、
「今ごろ雪がふるなんて。それにあんな体で歩けるなんて──。気力だけでいきている んだわ。愛……あれが愛なんだわ。なんてはげしい、なんて美しいものなの!」
どうか笑わないでいただきたい。確かに今からみれば文字通りマンガだが、こうしたセリフが真剣に説得力があった時代があったのである。命まで賭けても悔 いない、生涯でただ一人の相手。そういう相手にめぐりあうことが切なる願いであった ような時代……。その最大の頂点が『ベルサイユのばら』であった(・3)。明日は死地に赴くという晩、オスカルとアンドレが 遂に結ばれる、あの場面である。日本中の女子中・高生を興奮のるつぼに巻き込んだ、 あのシーンである。
その前に交わされた二人の声がこだまする。
「生涯かけてわたしひとりか! わたしだけを一生涯愛しぬくとちかうか?」
「千のちかいがいるか。万のちかいがほしいか。おれのことばはただひとつだ。…愛し ている……生まれてきて……よかった。」
まもなく死ぬに違いないことがわかっていて(フランス革命を除いてもオスカルは結 核である)「生涯かけて」もないものだとも思うが、それが彼女の優しさかもしれな い。ともあれそれほどドラマチックな生を生きているわけではない日本の女の子たちは どうしたか。『九月のポピイ(・4)』に なったのである。
結婚についての彼女の作文──。“それは……できれば初恋の人と運命的な出会いを して、小さなお家(うち)、赤いおやね、庭の柵はペンキでぬって、窓にはいつもお花 をかざり、部屋の中は暖かで、ずっとずっと愛しあい、子供ができても孫ができても、 心はいつも少女のようで、……”というわけだ(「愛する女といっしょに日を送るより は、愛する女のために死ぬほうがたやすい」と言ったのはバイロンじゃなかったっ け)。
「生涯を通じて一人の人と愛しあう」ことの価値の根強さはともかくとして、私はこ のあたりからオトメチックマンガへの素地が開かれたのではないかと思う。ここには明 らかに一つの大きな価値の転換がみられる。大人になることがかつてほどの意味をもた なくなっているのである。そして、七〇年代半ばに急速に台頭する「そんなキミが好 き」の世界。オトメチック(乙女チック)マンガこそがその象徴であった。彼女たちと てなにも、子供がいいのよ、と高らかに宣言しているわけではない。確かに彼女たちは 物語の中で、「私なんてドジで子供っぽくて何もできなくって……」とちょっぴり涙ぐ んでしまったりもする。だけど何ていったって「そんなキミが好き」なのである。「心 はいつも少女のように」なのである。先述のポピイの作文を読んでレイニィ先生は言 う。「ずっと愛しあうなんてのはなれあいと惰性って言うんだよ。大人の男と女は汚い よ。……だましあいこそ恋のスリル。この勝負ほれた方が負けって訳さ。」しかし結局 彼は彼女を選んだではないか。
この時から現在までを通じて、いつも最終的に恋に勝利するのは、手練手管にたけ、 さばけたセリフをはける大人の女よりも、ストレートに思いをぶつける、ひたむきな主 人公だというパターンが定まった。「なぜ君は、人のことなのにそんなに一生懸命にな れるの?」彼は彼女に魅かれはじめている。子供であることはいまや恥ずべきことでは ない。純粋さの証明なのである。一条ゆかりがいつまでも少女のような母親を描きはじ めたのも、またこの頃のことであった。
かくして少女マンガの黄金時代が到来した。かつて外国の少女たちからは じまった恋の主役は、日本の特に活発な女の子たちへ、そしていまやごく普通の少女た ちの間にも降りてきた。そしてその相手役の男の子も、それまでのハンサムでカッコイ イ男の子から、優しい、(時にカメラマンになってオーストラリアへ行く、というよう な夢をもった)普通の男の子になった。恋愛をするのに特別な資格は不必要となり、そ の結果、ほとんどの少女マンガ雑誌が、学園ラブロマンスで埋めつくされた。
この時点まででほぼ、少女マンガにおける一代妄想体系が確立する。そのテーゼは、
一途な愛は必ず勝利する、という黄金のテーゼであった。
御承知のように少女マンガは基本的にハッピーエンドである。よしんば彼女が失恋す ることがあるとしても、その横には必ず新しい恋の予感が用意されている。そして主人 公が相手からの愛が得られずに苦しんでいる間も結構「いいんだよ。思いきりお泣き」 と受け止めてくれる理解ある別の男がいたりなんかする。そう、彼女は、周囲の完全な 理解の中にいる。そりゃあ彼女はしばしば誤解される。真実を隠してあえて身をひいて しまったり、彼女自身が相手の気持ちを誤解していたりもする。しかし、その誤解は必 ず解かれる。ある時は偶然の立ち聞きによって、ある時はおせっかいな友人の進言に よって。「そうだったのか――」彼は両手を拡げて彼女を迎えにくる。ああ、少女の 夢!(べつにいいんですけどね。数あるせつない現実の中から奇跡的な事例だけが物語 になったと思えば)
それでもどうしてもうまくいかないことがある。そうすると少女マンガはこう教え る。見守ることが愛なのよ、と。本当の愛とは自分を押しつけないものよ。あの人の幸 せが私の幸せ、ただみつめていられるだけでいいの。
そして少女たちはいつの日かその思いが報われることを夢みてせっせと努 力を続ける。(ほんとに「せっせ」とか「うんせ」とかという擬態語が多いんだよ)仮 病を使って学校を休んでまで彼へのプレゼントを作ったり(陸奥A子『たそがれ時に見 つけたの』)、お弁当を作ってあげたり。
でも……、と彼女達は思う。たとえ報われなくったって、あの人が好き、その思いだ けで私十分幸せなんだわ……。
この考え方はとても美しい。だから今でも盛んに採用される。「少しでもそばにいれ るだけで嬉しいっちゃもん」(紡木たく『瞬きもせず』一九八八) 、「あのひとを好きでいるのはこんなに楽しいもの。あのひとの笑顔を見るの はこんなに幸せだもの」(逢坂みえこ『片恋の達人』永遠の野原シ リーズX、一九九〇)。
これらは確かに感動的である。私もそう思う。だがこの中には、実は危険な罠がひそ んでいる。こうした考え方をとる限り、彼女達はいつまでたってもその恋をやめること ができないのだ。もしかしたら、もしかしたら……。残された一%の可能性が蜃気楼の ように彼女達を誘う――ひょっとしたらちょっとしたタイミングのずれなのかもしれな い。今はだめでも一年後には思いが通じるかもしれない――だって少女マンガは(少女 小説も、ハーレクインロマンスも、ハリウッドのハッピーエンド映画も)、そんな物語 を繰り返し繰り返し見せてきたではないか。
とはいっても、たいていの人は適当なところで見切りをつけるだろう。しかし「愛の 尊さ」への信奉の程度が深ければ深いほど、そうはいかなくなる。だって相手が自分を 愛してくれないからといってやめてしまうような愛は本当の愛ではないのだから。そし て、それが真実の愛である限りにおいて、彼女達の愛は、実るかもしれないと思わせら れているのだから。“私のほうが美人だ”“私のほうが頭がいい”そんなことは、恋愛 において決定的なものではないはずだ。それが決定的な基準だったら恋の勝者ははじめ から限定されてしまう。しかし一つだけ、誰でもが参加できる平等な基準がある。
“私のほうが、愛してる”
(♪あの女(ひと)の涙の深さに負けたの、という歌があったでしょ。)
かくして、彼女は自分の愛を証明するために、「愛し続ける」ということを選択せざ るを得なくなる。「あきらめられないの」という言葉は愛の深さを証明するのだ。
小倉千加子が『松田聖子論(・5)』の 中で、山口百恵の『横須賀ストーリー』をとりあげて、「女は、信仰にも似た愛の幻影 (イリュージョン)を悔いるべきでした。男にとってはわかりやすい愛の終わりを自分 に見えなくさせている、男と女の間にある愛そのものの不条理に気づくべきでした。」 と書いているが、これが、その、「男にとってはわかりやすい愛の終わりを自分に見え なくさせている」愛の幻影(イリュージョン)そのものである。そしてそれは、あみん に『待つわ』を歌わせる幻影(イリュージョン)でもある。(ところで、私はかつて、 この人が結婚でもしたら生きてはいられないだろうと思った男が実際に結婚する時いた 瞬間、胸に広がったのが「ああ、やっとこれで自由になった」という解放感だったのが 自分でも意外だったことがある。なんという重症の患者であったことか!)
いったい男はこういう考え方をするだろうか。答はもちろん否である。男は、恋愛と は欲望の別名であることをよく知っており、自分の愛が至高の愛かどうかなどという設 問のたてかたはしない。だから、「私はあなたのためなら死ねるわ」は、まだ笑えない 響きをもつが、「岩清水宏は君のためなら死ねる」(『愛と誠』)は、依然としてパロ ディの対象とされ続けている。
しかし、愛を信じる少女たちはそんなことは考えてもみない。少女マンガには、文字 通り見守り続ける存在、いつまでも待ち続ける男が実にたくさん登場するのだ。『ベル サイユのばら』のアンドレ、『エースをねらえ』の宗方コーチ、藤堂さん、『アラベス ク』のミロノフ先生、『ガラスの仮面』の速水さん、等々。彼らは、まるで守護神のよ うに陰に日向に主人公を見守り、その存在を根底のところで支え続ける。
彼らこそは理想の男性だ。先に<恋愛は家庭を志向する>でふれた、相手への存在肯 定の言葉――「誰にもわからなくたって私にはあなたがわかるわ」は、実は彼女たちが 自分自身に向かって言ってほしい言葉なのだ。こうした、自分を肯定し受け入れてほし いという欲求が反転して、彼女たちはまず、限りなく相手を受け入れ、愛情を示しはじ める。「自分がしてほしいことを他の人にしなさい」という聖書の教えを実践している のだ。実にけなげである。それでもまだうまくいかないとすれば、それはまだ努力が足 りないか、十分な年月がたっていないのだ(・6)。だって、一途な愛は必ず勝利する、のではなかったか。
しかし、誰でも知っている通り、本当のところ、その愛が真実かどうかなんて恋が実 るためには何の関係もない。「命をかけようがどうしようが、実らないものは実らな い」のである。そのわかりやすい真実を、“真実の愛”願望が覆いかくす。
「愛の尊さ」を信奉することの弊害は、女に恋をあきらめさせないことだけではな い。それは「愛」の名において女にどんなことでも可能にさせる。「だって愛している んだもの」と彼女たちはいう。自分の欲望はあとまわしにしてまず相手の願望を優先す ること、自分よりも他人を大事にすること、それが「愛」である。ひたむきな愛、一途 な愛というのは、どこまで自分のエゴイズムに打ち克って相手の幸福を考えられるか、 自分を抑えられるかにかかっている。女の愛は自己放棄を強く内在している。そしてそ の最大の自己放棄の儀式がSEXである。処女の場合は特にそうだが、“SEXは愛の 行為、愛のあるSEXこそが尊い”という強い刷り込みを受けてきた女にとってSEX は、“私はここまであなたを愛したのよ”という究極の証明に他ならない。そして、少 女マンガにおけるベッドシーンは、まさにそういう位置を占めている。もちろん現在で はかなり変わってきており、それほど好きでない相手とベッドインする場面もある(・7)が、それにしてもそれが好きな相手と 結ばれる場面である場合、その裏にはこの意識がかなり強固にはりついてい るとみるべきだろう。そして、相手に対する愛情が深ければ深いほど、SEXは彼女を 侵犯しはじめる。
ここで最大の問題が起きる。一途な愛も、ひたむきな愛も、それが完全な片思いであ る限りにおいてまだ弊害は少ない。しかし、いったん関係が成立してしまうとコトは最 悪になる。それはいったいどれだけ残酷な性愛ゲームになり得るだろうか。
少女マンガにおいては、SEXという、彼女の愛の最大の証明がなされた後で、相手 が裏切るなどというのは思いもよらないことだ。レディースコミックではあるまいし、 少女マンガでは、ヒロインを抱いたくせに彼女を捨て去るなどという酷(ムゴ)いこと をする男は、絶対に登場しない。ごく稀に、何かの理由で自棄(ヤケ)になっている男 を前に、「私じゃなんの役にもたたないの? 少しでもあなたを慰めたいの。一晩の遊 びでもいいから私を抱いて」と身を委ねる、痛ましい女の子はいる。しかしその場合 は、その一晩のために彼女は妊娠し、それほど人非人でない相手の男は、「愛している わけじゃない。でも、今は彼女のそばにいてやろうと思ってさ」と、二人は一緒に生活 をはじめる。これをきっかけに二人の間にはゆっくりと愛情が育っていくだろう、と予 想させる結末である。
しかし、現実はそうはいかない。抱いたからって彼女を捨てる男はいくらでもいる。 子供ができたって同じだ。すると「真実の愛」に生きる女はいう。「あなたに迷惑はか けません。私が一人で育てていきます。」もし、どうしてもうまくいかない場合、好き な人の子供を身籠り、育みながら一生を送る。それが「愛の尊さ」を信じる女の一つの 理想なのだ。
あるいは彼女は、無限に続く性愛のゲームの中に投げこまれる。繰り返される残酷な 仕打ち。しかし、彼女は、いつかは私の真実の愛が、相手の心の扉を開くと信じてい る。まるで聖職者のように。かのマゾヒズム小説の金字塔『O嬢の物語』を評して渋澤 龍彦は、「これは一種の信仰小説だ」と言ったのではなかったか(・ 8)。
私はそれほど極端ではない、と愛を信じる女たちも言うだろう。しかし、女の愛には 多かれ少なかれそういうところがあるのではないか。時には自分を捨てるのが愛だ、と 思うからこそ、女たちは自分の夢を捨てて家庭に入り、あるいは自分の側に過度な負担 をひきうけてきたのではないか。そして、愛は私を幸福にしてくれるはずだったのに、 そうでないからこそ、現実が次々にそれを裏切っていくからこそ、いらだちを覚えてい るのではないか。
ひたすら好きな人と結ばれることを夢みてつっ走っていく少女マンガから突然、自棄 (ヤケ)になったようにマゾヒズムに傾倒していくレディースコミックを見ていると、 私はそう思わずにはいられない。
彼女たちは考えてみるべきだったのだ。「恋は男と女のゲーム。この勝負惚れた方が 負け」とするならば、ひたすら愛することを教えられてきた女の側に勝利はないこと を。「相手の立場がわかる人間と、自分の立場だけからものを言う人間が対峙したら、 絶対に後者が勝つ」(上野千鶴子)(・9)のである。彼女たちが、至高の愛・愛の尊さを信じる限 り、愛には自己犠牲がつきものだと信じ続ける限り、この愛に対等はない。よしんば いったんは勝利したとしても、「持続する愛」の価値を教えられているのは彼女だけな のだから、愛の持続のためのあらゆる努力は、彼女の双肩にかかってくる。それは果た して対等だろうか。
別の言い方をしよう。トランプに「ツー・テン・ジャック」というゲームがある。2 と10とJを高得点として、札はプラスとマイナスに分かれる。そして集まってきた札 のプラスとマイナスを相殺して残った得点の高低で勝負が決まるのだが、その中に、一 人の人間のところにすべてのマイナス札が集まった場合は、プラスとマイナスが逆転す る、というルールがある。実に「真実の愛」を信奉する女たちがめざしていたのはこの 勝ち方なのである。しかし、冷静になって考えてみればわかることだが、これで勝つの は至難の業だ。だが、努力が奇跡を起こすと信じ続ける彼女達は、果敢に、 しかも果てしなくチャレンジし続ける。一方、とてもそこまではできない他の女たちも なんとなく、この勝ち方こそが最も価値があるような刷り込みを受けている。それでど うしても、自分の集める札の中に何枚かのマイナス札を紛れ込ませないではいられな い。そうやった上で、トータルはプラス、そんなふうにもっていきたいのだ。だが、男 はそうではない。そんな思い込みはないから、当然、プラスの札を積極的に集めてマイ ナスの札は極力とらないようにする。あたりまえだ。しかし、これでは勝負は明らかで あろう。
「愛」というのは錦の御旗のようなもので、フェミニズムでさえこれを否定する方向 にはない。しかし、ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置 なのかもしれない。恋愛というのは女にとって最大の罠かもしれないのである。私たち はここで、もう一度そのことを考え直してみるべきではないか。
今までみてきたような愛の幻想の体系は、もちろん少女マンガの中だけのことではな い。少女マンガがつくりだしたものですらない。少女マンガはただ、多くの女性に共有 されている愛の幻想を、映しだしているにすぎない(だから、もう娘に読ませるのはや めよう、などと思わないでほしい)。その幻想が今でも女性の意識の基底をなしている ように、それは今でも少女マンガの基底をなしている。しかし同時に、それを乗り越え ようという試みも、同じ少女マンガの中で行われているのだ。
前述したような「恋は素敵なゲーム、この勝負惚れたほうが負け」というイメージに しても、それにはじめてふれた時、どんなに胸が高なったか、どんなにそれが魅力的に 響き、私を魅きつけたか、私は昨日のことのように思いだせる。ああ、プレイガールに なりたい、私はワクワクしながらそう思ったものだ。それは、ずっと一人の人と深く愛 しあうということとは対極にあるものだったけれども(私はそれを信じていたのです よ、もちろん!)、思いきって翔んでしまえばそういう生き方もあるのだ。それはどん なに自由で、ステキなことだろう――。
そのイメージを最初に提供したのは、なんと萩尾望都だった。私は一条ゆかりだと ばっかり思っていたのだが、今回資料をあたりなおしてみると、萩尾望都のほうがはや いのである。『ジェニファの恋のお相手は(・10)』(一九七一)。死神の手違いで寿命 よりはやくあの世につれていかれることになったおばあさんが、かわりに望みをかなえ てやるといわれて二週間だけ、ガリ勉の孫娘ジェニファと精神を入れかわり、プレイ ガールに変身する、という物語である。それから『精霊狩り』(一九 七一)。「なぜ精霊は長生きなのか? からだがかるくてホレっぽいのか?」 「精霊は七年ごとに浮気をする……よって有罪!」テンポのいいセリフがよみがえる。 それから『オーマイ ケセィラ セラ(・11)』(一九七三)! 素敵なプレイガー ルだったママ――。
考えてみればプレイガールはまず、母親の姿として肯定的に描かれる。たとえば一条 ゆかりの傑作『ハートに火をつけて(・12)』。娘を妹だということにして気ままな恋を楽しむ女優の母。彼 女の娘に対する教育は「好きにしなさいジョゼ。人生は楽しく、いつも自由であるべき よ。退学になろうがあなたの責任。」それで娘は街にくりだす。「そうよ、私は遊ぶの が好き。自由が好き。人生が好き。たばこの煙に人々のざわめき。グラスのかちあう音 に恋のかけひき。」そして素敵なプレイボーイと恋をして、ラストはこう結ばれる。 「恋のかけひき、ささやくセリフ。それはいつも同じ言葉。ああ――あなた。誰かハー トに火をつけて。恋の炎を消さないで――」
まるで九〇年代の今日を先どりしたような、今読んでも心躍るラブコメディの傑作で ある。
自由が好き──、人生が好き──。この頃から次第にそれが、時代を席巻する女性の 気分となっていったように思う。この作品が描かれたのが一九七三年であるが、奇しく もまず女装する少年、続いて少年愛の世界が描かれはじめるのがちょうどころ頃であっ た(・13)。それから少女マンガの世 界は、その基盤に愛の幻想を残したまま、一方で、自由へ! 自由へ! と雪崩をうっ て進んでいく。性別越境はあたりまえのこととなり、女装・ホモ・レズ、なんでもあり のアナーキーな多型倒錯の世界がくりひろげられる。あるいはSFという手段をかり て、それは、社会システム、のみならず生物学的システムまでもが根本的に変わってし まった世界を描き出す実験をやってみせた(・14)。
それまでの常識では考えられないような、あっけらかんとした男女関係のイメージを うちだす試みもなされた。名香智子(なか ともこ)、原田智子(はらだ さとこ)な どの作品はその代表である(・15)。
たとえば、名香智子の、公爵夫人ヴィスタリアをめぐる連作では、実はレズビアンの 彼女は(夫とは催眠術にかかっている間に結婚してしまったのだ)、次から 次へときれいな女の子に手をだし、夫と女の子を奪いあったりもするというとんでもな い設定である。また、原田智子の『きわどいかんじ』では、女子大生なのに中学生にし かみえない、しかしへんにクールな女の子と、どっちかというとかなり女っぽい青年の 奇妙な同棲生活が描かれる。とはいっても彼のほうは以前はかなり嫌味なプレイボーイ で、昔の彼女にばったりでくわしたことから過去を告白し反省し、その後でTVの『ベ ルばら』をみながら「オスカルさまのために三〇すぎまで童貞を守るなんてアンドレこ そ男の中の男だ」とじ〜んとする場面には思わず笑ってしまった。同じ幻想が男だとい かに滑稽にうつるかの見本のようなものである。
レディースのほうでは、『シルキー』で活躍している東樹れい子が、毎回かなりぶっ とんだ設定をしている。『私はコレで男をやめました』は、そろそろ結婚でもしよう か、と人材募集を装って面接で夫を決めた女社長のもとに、昔の愛人が訪ねてくる。 困った彼女が両方手放したくないとかけもちしているうちに、二人がはちあわせてしま い、ええいままよと紹介すると、二人は実は生き別れになっていた父子。自分がかえっ てはじきだされてばからしくって、というお話。『間違いだらけのオトコ遊び』は、ハ ンサムで無口で従順な男をルックスと操作性で選んで、首尾よく「専業主 夫」にしたてあげてみたものの、内にこもる性格からキッチンドリンカーになってあえ なく死亡、という話だし、『愛人Q』は、男の子供に同情されて公認になってしまう愛 人の話、というぐあいである。
こうした、常識を外した人間関係の実験が、どのあたりからはじまったのかという記 憶をたどると、私はまた一条ゆかりの作品を思いだす。サガンの『優しい関係』の漫画 化(・16)。落ち着いた大人の恋人を 持つ妙齢の女性の家に、事故かなにかがきっかけで、若い男の子が転がりこんでくる。 彼は彼女と一緒に暮らすことになるのだから、恋人のほうは心穏やかではない。おまけ に実際に、彼女と男の子はいいムードになってしまう。しかし、なんだかんだの末に結 末はこうなる。「三人一緒に暮らそうよ」と。えっ? 一瞬はとまどう主人公(ヒロイ ン)だが、「そうね、それでいいのよね」
え〜?、そんなのあり? 若き日の私はひっくりかえってしまった。でも、そうね、 そうよね。「うわ、関係っていうのはいろいろあるんだぁ」私がそう悟った最初のきっ かけである。これもまた一九七二年の作品であった。
その後も一条ゆかりは“縛りあわない関係”を何度か問題にしている。『ティー♥タイム』(一九七六)では、結婚していてもあえて別居してお り、「お互いを縛らず自由に生きてて、それでも深い所で信頼しあえるなんてとてもい いね」と、主人公である息子に評される両親を設定しているし、『それすらも日々の果 て』(一九八五)では問題はもっと複雑である。女子大生で ある主人公が知りあったプレイボーイのTVディレクターは、画廊の女主人である妻 と、別々に住んでお互いに自由に暮し、しかし時には恋人同士のように、花束のプレゼ ントまでついたデートを楽しむという自由な夫婦関係を実践している。もちろん他にも 彼をとりまく女たちはたくさんいて、実は、間もなく結婚を控えた主人公の姉も、週に 一度は彼とそうした「大人の関係」にある一人である。処女(バージン)を捨てるなら あんな男がいいよ、と友人にけしかけられて主人公は、誕生日に海のみえるホテル、と いう実に完璧にセッティングされた喪失旅行に出かけるが、あわやというところで生理 がはじまってしまい、残念ながら中止。しかし彼にしだいに魅かれていく主人公。「あ の人が好きだからいつも一緒にいたい」とストレートに思いをぶつける彼女に対し、 「大人の女」にみえた彼女の姉もあるいは彼の妻も、そうわりきっているわけではない ことがしだいに明らかになってくる。“クールな関係”を装いながら、思いが限界に達 し、「……いままでずっとあなたにあわせていたんだから。あなたがなにをしていても きずつかないふり…、嫉妬していないふり…(中略)本気で愛してもくれない男を愛し たら…男の恋愛ゲームにつきあうしかないじゃない…」と泣く姉。主人公は結局、その 男と初めての夜をすごすが、彼はまもなく外国へ旅立っていく。するとその飛行機の隣 の席に、思いがけなく妻があらわれて男に微笑みかける。彼女は言う。好きだから一緒 にいたい、そう思って結婚したはずなのに……「私たちはおたがいをしばらないように とむりをして、自分をしばっていることに気がつかなかったのよ」
ここには、既存のものをうち破ろうとして新しく提出されたスタイルが、逆に自分た ちを縛る規範になることもある、という逆説がとらえられている。考え方の基盤が変 わっていないのならなおさらのことだ。主人公の姉の例は典型であろう。ベッドで、結 婚のお祝いは何がいい? と聞く男に対し、彼女は言う。「あなたほんとうになんとも ないのね。私が結婚しても。」
彼女は本当は、「君を誰にも渡したくない。僕だけのものにしたい」と言ってほしい のだ。そして相手にもこう言いたいのだ。「私だけを愛してちょうだい。」
その思いの上に立ちながら、「新しい自由な関係」を保ち続けようとすることは、文 字通り、「相手を縛るまいとして自分を縛る」ことにしかならない。そしてそれはなん と、夫の愛人を寛容に認める「よくできた妻」の像に似ていることだろうか。どちら も、結局は相手を失うまいとして自分を抑制しているのである。そしてその心理的なパ ターンのあり方は、自分の愛の深さを証明するために、自分を抑制し、相手の意をくん でそれに応えていこうとする女たちの像にも重なっていく。
しかし、自分の側に痛みをひきうけること、相手にあわせて自分の感情をできるだけ コントロールすることは、けっして愛情の深さや、彼女が人よりもすすんでいることを 証明するものではない。それはむしろ幻想の刷り込みの深さを証明するものであるかも しれない。恋愛という罠が、装いだけを新しくして反転しているだけかもしれない。そ う疑ってみることだ。なにも必要以上にマイナスの札を取ることはないのである。
我々の心理の中に、かくも周到にはりめぐらされたこの罠から逃れるために、それで はいったいどうすればいいのか。そこででてくる一つの処方箋は、わがままな女になる ことだ。「こんな愛があるということを証明したい」ではなく、恋愛の動機は「ほしい ものは、ほしいわ。」そんな女になることだ。自分の欲求をはっきりと認識し、それを 得るための手段(テクニック)とは区別する、そういう女に。
そして実際、そういう女は最近ふえてきている。現実にも、そしてマンガの中にも。 同じく一条ゆかりの『おいしい男の作り方』(一九八九〜) で、主人公の家事万能の少年のGF役で登場するマリリンや、先述の名香智子の描くヒ ロインたち。彼女たちはへんな思い入れがないぶんだけ自分の状況がよくみえている。 彼女たちは欲しい男を手に入れるために必要とあらばぶりっ子もするし、そ の友だちを脅迫して裏で手をまわしたりもする。その一方で、腹が立てばストレートに 相手にぶつけるし、たとえその男が自分の恋人でなくても、別の女の子と仲良くするの が気に入らなければその嫉妬を隠さない。
名香智子は、わがままな女を描くのが実にうまい作家であるが、彼女の必見の名作 『パートナー』は、恋愛は状況の関数である、ということを見事に描きだしてくれた。 かつて私自身が同作品にふれて書いたこと(・17)だが、「(魅かれあっている)どの関係も潜在的に等価である。 ただ、いま契約を結んでいる、眼の前にいる相手だけが、その間だけ、特権的であ る。」
竹宮恵子『嘘つきな真珠たち』vol.1白梅(・18)も、そうした作品である。物語は、一時代前、花嫁御寮が実家を 出ていくところから始まる。近所の人が、“恋人がいたのにねえ”“やっぱりお金に眼 がくらんだのよ”などとヒソヒソと囁きあっている。つまりこれは、なぜ彼女が恋人で なく、社長の息子を選んだのかという物語なのだが、それは結局、かけおちをしようと いう恋人からの手紙を破り捨てながら彼女がつぶやく言葉――「恋ならひとりでできる んよ」に集約されている。つまり、彼女は再三再四、自分と一緒にやっていく気がある のだということを、すっかり社長の息子との縁談に乗り気になっている親に一言言って ほしい、と恋人に訴え続けるのだが、彼はそのたびに言葉を濁し、いっこうに矢面に立 とうとしない。「ずるいよ、信ちゃん。認められることしかしないつもり?」彼女の思 いはたゆたい、結局は縁談を受ける。彼女の人間性に注目し、一緒に歩んでいきたいと はっきりと意思表示する社長の息子の方にしだいに魅かれていったのである。結婚の前 日、そばで雑誌を読む幼い女の子に話しかけながら彼女は言う。「好きやったよ。…好 きっていうことでやったらあした結婚する人より好きや。」「ほんならどうして?」と 問う少女に、「さぁ…なぁ。わたしを嘘つきやって言うてくれる人のほうがええ。たぶ ん…そう思たんよ。」
現在の恋心は、その関係の将来を決める絶対的な基準ではない。ここには、現実を しっかりとみつめはじめた少女たちがいる。この傾向は、近年、少女マンガにおいてと みに強くなってきた傾向である。それと同時に、男の子の描かれ方も変わってきた。男 の子が「自分を肯定してくれる他人」から「理解すべき他人」になりはじめたのであ る。
はやい話、かつての少女マンガなら、たとえば相手は、憧れの先輩であればよかっ た。雨の日に小犬を抱きあげてやっていた姿が印象的だろうと、バスケットの試合での 勇姿が忘れられなかろうと、彼についてたとえその他に何も知らなくても、とにかく彼 女が好きになる理由がありさえすれば、彼からの「好きだよ」、が少女にとって万金の 重みをもつだけの条件を備えていさえすれば、よかったのである。しかしいまや男の子 たちは、「よくわからない他人」として描かれはじめた。そこで多くなったのが、お隣 さんとか、クラブも一緒のクラスメートとか、主人公が彼としょっちゅう一緒にいられ るような設定である。こうしてやれば、彼を観察し続けることはできる。しかし、男の 子は結局のところよくわからない。でも、時に、日常の裂け目を通して彼がどんな人間 か、突然垣間みえることがある。たとえば谷地恵美子『ぴー夏がいっぱい』での累(る い)のモデルオーディションの場面(『あすか』一九八八年六月号)。
あいかわらず生意気な累の受け答えに、マネージャーの夏芽(なつめ)ははらはら。 しかし、ウォーキングの段になって、何度やり直しを命じられても、累は途中でとびだ していこうとはしなかった。「もう一度!」「もう一度!」容赦のない声がとぶ。「信 じられなかった…」夏芽は思う。「それは、はじめてみる累くんの表情(かお)だっ た。……あの人たちの前を、何度も歩きながら、累くんはなにを考えていたんだろう ……」
ここで目の前に屹立しているのは、完全な他者としての存在」である。主人公はそ れを理解しようとしている。しかしそれは、依然として主人公の理解を阻む ものである。そこが、前にみた、あなたの寂しさを「わたしはわかるわ」というのと決 定的に違うところだ。その場合の「理解」は、それによって相手をとりこもう、支配し ようとする手段である。しかしこの場合の「理解」は、ひょっとするとそれによって彼 は、主人公とは決定的に隔てられてしまうかもしれない、それによって、どうしても歩 み寄れないことが明らかになってしまうかもしれないものである。それは、何という差 であろうか。
自分の問題と他人の問題とを区別し、自分にできることとできないこととをはっきり と認識すること、そしてなおかつその限界をひき受けて進み続けること、我々にできる 最大の努力はそれしかない。もし、愛することがやめられないなら、もし、私はわがま まな女になんかなれない、というなら、それを限界としてひき受けることだ。もう、覚 悟を決めることだ。そうすればそこには、ひりつくような快感だけはある。深情(ふか なさけ)という名の、“地獄のカクテル”を飲む気なら、それぐらいの覚悟はいるので ある。
石塚夢見『ピアニシモでささやいて(・19)』というマンガがある。まるで中島みゆきのようなシンガーソン グライター、須佐朱(すさ あけみ)を主人公とするマンガであるが、この表題『ピア ニシモでささやいて』というのは、“寂しくて孤独な夜には、あなたが眠るまで、あな たの欲しい言葉を、何度でもささやいてあげる”という内容の、朱のデビュー曲「ピア ニシモでささやくわ」からとられている。彼女もまた、父親はなく、母親の愛に飢えて 生きてきているのだ。彼女は聴衆に向かって語りかける。私はそんな「完璧な他人」を 求めてきたのだと。朱自身の言葉を借りれば、「言葉なくして通じ合い、わたしの望む ままにやさしい言葉をささやいてくれる、どうしようもない自分を確かな口調で肯定し てくれる、そんな……」他人を求め続けてきたのだと。すでにみてきたように、これま での少女マンガの大半もそうであった。しかし、朱は言う。「――でもあり得ない夢。 『完璧な』他人とは、わたし自身のことだから…。」(傍点筆者)
彼女はまた、別のステージでこうも言う。「…わたし、ずっと思ってた…、二〇年間 信じてた。裏切りを、絶望を、憎しみを、包み込んで足りる愛があるって…。とんでも なかったね。『愛』って風呂敷そのものに、裏切りや憎しみが、一緒に織り込まれるっ てのにさ…。どんなに包み込もうとしたって、徒労に終わるのが当然だ…。」けれ ど!! と彼女は叫ぶ「『こんなもんさ』と悟るために、『愛は徒労におわるだろう』 と知るために、わたしの二〇年はあったんだろうか。(略) わたし臆病だからあきら めより、『あきらめること』のほうが苦しい!(略) わたし…「緒」を…、切りたく ない…!」
彼女もまた、恋をしている。プロデューサーの渡会一意(わたらい かずい)。腕を ケガするまではトップミュージシャンだった彼には、しかし、婚約者がいる。だが実は 彼女こそは、彼のケガを仕組み、後には他の男に身を委せてまで朱をつぶす工作をさせ ていた、裏切りの張本人である。大会社の社長の娘である彼女はどんな手を使っても彼 を音楽からひき離したかったのだ。しかしそれを知ってもなお、彼は彼女を選ぶ。それ が決定的になった時、朱は初めて彼と六つの夜をすごす――別れるために。(しかも彼 女はそのためにピルを飲んで準備するのである。)
この連載の三年間で、朱は本当に見違えるほどの成長をとげる。「…なんか…なぁ。 泣けてくるほどやさしい声…」スタッフがつぶやく。世界ポップス祭で歌う朱の声に、 長い仕事仲間で二人の事情を知る日下部(くさかべ)は、にじんでくる涙を押さえられ ない。「――うるさい。あれは…あれは少女だったんだぞ」、その言葉はストレートに こちらの心に泌み通る。しかし、その「成長」は、「強さ」は、そして「愛」は、その まま「幸福」にはつながらないのだ。
ここで私は深いため息をつく。私たちは、「恋愛」が「結婚」への道であり、そして 「幸福な家庭」をもたらすものだと信じていられたあの頃から、どんなに遠くへきてし まったことだろう。一途な愛は必ず勝利する、と信じていられたあの頃から、どんなに 遠くへきてしまったことだろう。いま私たちは、どんなに深い愛も、どんな努力も、幸 福を約束するものではないことを知っている。その一方で、美しい愛の幻想が、どんな に私たちを縛ってきたか、いまだに縛っているかを知っている。
もう、覚悟を決めてもいい頃だ。私たちは、一途な愛の向こうに幸福をみることをや めなければならない。そして、その愛のプラスもマイナスも、すべて自分の欲望の 結果として、受けとめなければならない。
愛を美化するのをやめること、それしか恋愛が罠にすりかわることから逃れる道はな いのである。
これはほとんど恥ずかしいぐらいの自己告白的な記録である。わかる人にはすでにわ かっていると思うが、文中の<彼女>というのは、ほとんど私自身のことである。少し でも具体的ないきさつを知っている人なら、ははん…と納得する箇所が随所にあるだろ うと考えると、顔から火がでるような思いがする。
それにしても、そうした具体的な恋愛の過程で、上野千鶴子氏や小倉千加子氏から投 げつけられた辛辣な批評の言葉、「ずいぶん支配的な人やねぇ」「そら、“地獄のカク テル”を飲んではるんですわ」等が、この原稿の陰の力になっていることは疑いがな い。私が目を覚ます(?)きっかけを与えてくれたお二人に感謝して、この稿を終える ことにしたい。