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少女マンガって、どこから来たの? Part 2

今回も前回に引き続き、少女雑誌に少女マンガらしいマンガが、いつ登場してくるのかを探っていくよ!

前回は明治時代の4コマ「少女マンガ」ならぬ少女「ポンチ畫」を紹介したけど、大正時代になるとやがて「漫畫(まんぐわ)」という呼び方が定着するんだよね。

だけど、この頃は、肝心な表現がまだ定まっていない。今の日本人から見ると、「これのどこがマンガなんだろう?」と小首をかしげる様なものばかり。

たとえば、『少女の友』の大正11年10月号の池部釣のこの作品。どう見ても、挿絵付きの小説だと思うけど、はっきりと「漫畫」とあるよね。

翌大正12年同じく『少女の友』の6月号に載った前川千帆の作品「仲良し寫眞」は、まだそれなりにコマ割りされていて私たちが考える「マンガ」に近いね。(内容も可愛いし)

ところで、この頃のアメリカの漫画事情はどんな感じだったかというと。

日本に先駆けて、現代のマンガの特徴がほぼ完全に定着していた!

その特徴は

・複数の絵による物語表現(👈当たり前)

・フキダシによる台詞表現

・効果線や擬音といった記号の多用

・説明的な文章の不使用

代表的なのは、『ガソリン・アリー』👇

(1922年1月23日付新聞の作品)

もしかして、みんなは、こういった現代風のマンガって日本人が最初に作ったと思っていたんじゃない?手塚治虫とか?

でも、違うんだよね~。

実は19世紀末のアメリカの新聞に、現代のマンガの特徴を備えた作品が初めて登場して、20世紀初期に広まっていったの。(19世紀末は日本では明治時代)

その表現を10代だった北澤楽天が、横浜に滞在していたオーストリア人のフランク・ナンキベルから教わって日本に導入したんです!前回もちょこっと触れた、昭和3年に連載が始まった『とんだはね子嬢』が楽天の作品の一つ。

さて、ところで日本初のヒットマンガといえば、何かご存知?

それは、大正12年から『アサヒグラフ』や『朝日新聞』の朝刊に連載された、東風人(樺島勝一)と織田小星(織田信恒)による、『正チャンの冒険』。

(「お伽 正チャンの冒険」壱の巻/大正13年7月6日発行)

どれぐらい人気だったかというと、この正チャンが被っていたニット帽にちなんで、いまだにニット帽のことを「正チャン帽」と呼ぶくらい!といっても、若い人は知らないかも?と思ってAmazonで「正ちゃん帽」を検索してみましたYO。ありましたYO!

だけど、この辺りの作品は、少女雑誌に載ったわけでもないし、主人公は少年。

私たちが探しているのは、少女雑誌に載った「日本初の少女マンガらしい連載少女マンガ」です。

「そんなもの誰が定義を決めんのよ」と言われそうですが、それはもちろん私です😁

そして私の定義だと、その「初」は『少女画報』の昭和5年1月号に初めて登場した「ポクちゃん」シリーズではないかと思うんです。

フキダシを使っていなくて、顔のアップなどのメリハリもないけど、でも大正時代の「挿絵をいっぱい使った小説のような漫畫」ではなくなっているし、特定のキャラクターを毎回使っているし、説明的なナレーションを必要最低限に抑えてる。

そう、戦前の少女マンガと言えば、この方。

松本かつぢ。(松本勝治とも松本カツヂとも表記される。)

昭和3年から『少女画報』で、昭和8年から『少女倶楽部』で、昭和10年から『少女の友』で、びっくりするほどいろんな絵柄で、抒情画、カット、挿絵、そしてマンガを描いていた。上の、極端にアール・デコ風になっているポクちゃんを、下の絵と比べてみて。同じ人が描いたと思えないでしょ!?

こんな風に、作品の雰囲気や目的に合わせて絵柄を変えられる絵師は、当時でも現在でもそういないよ。

「ポクちゃんシリーズ」の次の松本かつぢ作品は、昭和7年から12年まで連載された「ピチ子とチャー公シリーズ」(題名が2回ほど変わったのである)

こちらは立派な続きものになってて、特に「世界漫遊」編になるとプロットが複雑になってくるし、表現も大胆になっていく。

しかし!かつぢ先生の戦前の最高傑作と言えば、『少女の友』昭和9年4月号の特大オールカラー付録として描かれた「長篇漫画物語り」(といっても12ページの読み切りですが💦)『?(なぞ)のクロバー』でせう!

話は『紅はこべ』と『ロビン・フード』を足して2で割った感じですが、主人公の優しい羊飼いの女の子は夜になると正義のヒーローに変身する!漫画表現がさらに進化して、俯瞰図やムードを伝えるための文字のないコマなどが登場する。

『?(なぞ)のクロバー』は最高傑作だと思うけど、かつぢ先生の一番有名な戦前の漫画作品ではなかった。一番の人気作品は、『少女の友』昭和13年1月号で連載が始まった、あえてシンプルな日常を描く、ほのぼのギャクマンガ、『くるくるクルミちゃん』でした。

クルミちゃんは、最初は小学校3年生ぐらい(?)に見えたけど、だんだんと頭身が縮んで、幼くてよりかわいい感じになっていく。下のスキャンは1987年(昭和62年)に出版された『くるくるクルミちゃん』第1集に載ったもので、文字表記は現代仮名遣いに直されていて、上のものより読みやすくなってるよ。

まずこっちは初登場👇

そしてこっちは昭和15年5月号のもの👇

どう?かわいいでしょ?

ここまで、トントンと大正~昭和初期の少女マンガが誕生する様を見てきたんだけど、昭和15年12月に「情報局」が発足します。情報局は「出版法」、「新聞法」、「国家総動員法」に基づいて「言論統制」、つまり検閲をやり始めて、昭和16年末~17年始ごろまでに、事実上すべての子供向けのマンガが消えちゃうんです。「国が戦争をしているのに子供がくだらないマンガなんかを読んでいる場合ではない!」というのは建前の理由で、実は紙が不足しているのに雑誌が、特に子供雑誌が売れ過ぎていて、紙が不足していることをあまり知られたくない政府にとってはピンチだった。ようするに、出版社に面白くない、売れない雑誌を作れ、とプレッシャーをかけたわけです。子供の雑誌を面白くなくするために、手っ取り早いのは、マンガを無くすことだった。

体面を保つために、政府は終戦まで、ページ数の少ない、粗い質の紙を使ったいろんな雑誌を作らせ続けたけど、それを買う余裕のある人は限られてるし、中身は暗くて誰も読みたくない。

戦時中最後の『少女倶楽部』。10数年前に、もう大阪府立中央図書館に吸収されて無くなってしまった国際児童文学館で実物を見たとき、私は切なすぎてぽろぽろ涙を流してしまった。

かつぢ先生が、せっかく生み出した「少女漫画」は、田河水泡などの作家が作り出した少年漫画と一緒に、一旦殺されてしまいました。

そんな「漫画」が戦後に「マンガ」として復活するまで、道のりは長かった…

今回のブログで松本かつぢに興味に持ってくれた方、ぜひ http://katsudi.com/ をチェックしたり公式ツイッターアカウントFACEBOOKをフォローしたりすると良いよ!そしてさらにかつぢについて深く知りたい人はぜひ私より10倍詳しい@LACOPENこと平松和久先生をフォローして下さい!(今回のブログを書くに至って平松先生に色々質問をさせていただきました!)